イギリスに引っ越して、まだそんなに経っていない頃の話だ。
慣れない土地で、慣れない生活。パブのビールは美味いし、人は親切だし、悪くはないな——なんて思い始めた矢先に、国民投票の話題が街中に広がってきた。
EUを離脱するか、残るか。ブレグジットだ。
でも正直、最初はピンとこなかった。「まあ残留でしょ」という空気がどこにでも漂っていたし、自分もそう思っていた。世論調査は接戦だったけど、なんとなく「大事にはならないだろう」という謎の楽観があった。
で、投票日。私はたまたまベルギーに出張していた。
ブリュッセルのホテルに戻って、とりあえずテレビをつけた。開票速報をやっていた。なんとなく眺めていたら、画面の数字がじわじわ離脱派に傾いてきた。
「あれ、なんか想定と違う方向に進んでないか」
チャンネルを変えても同じ。どの局も神妙な顔をしたアナウンサーが数字を読み上げている。気づいたら深夜になっていた。そして賛成が過半数を超えた——というテロップが出た瞬間、思わず「マジか」と声が出た。一人で、ホテルの部屋で。
翌朝のブリュッセルは、見た目はいつも通りだった。カフェもあるし、人も歩いている。でも何か空気が重い。EU本部が近い街だからか、すれ違う人たちがどこかぼんやりした顔をしていた。
私はコーヒーを飲みながら、昨夜の数字を思い返していた。
イギリスに来たばかりの自分が、よりによってEUの心臓部みたいな街で、歴史的な離脱の瞬間をひとりで見ていた。なんというタイミングで渡英したんだろう、と苦笑いするしかなかった。
あのホテルの部屋と、翌朝の白っぽい空は、なんとなく今でも覚えている。

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