ドイツからイギリスへの転勤が決まったとき、正直なところ「少し楽になるのではないか」という感覚があった。
ドイツは、駐在員として生活するには決して容易な国ではない。言語の壁は厚く、社会のルールも明確で、個人として自立していることが強く求められる。合理的であるがゆえに、曖昧さに頼る余地が少ない。
それに比べてイギリスは、どこか日本に似た空気があった。
まず、日本文化の認知度が高い。
日本食は広く受け入れられており、「Sushi」や「Ramen」は特別なものではない。日本という国自体が、一定の親しみを持って認識されている。
そしてもう一つ印象的だったのは、現地に住む日本人の存在感だった。
イギリスには多くの日本人が生活している。駐在員だけでなく、現地採用者や長期滞在者も多く、コミュニティとして自然に存在している。彼らは過度に緊張している様子もなく、環境に溶け込みながらも、自分たちの文化的基盤を保っている。
その姿は「こなれている」と表現するのが最も近いように思う。
この環境は、駐在員にとって大きな安心をもたらす。
日本語が通じる場所があり、日本の情報が手に入り、日本人同士で共有できる感覚がある。生活の立ち上がりは明らかにスムーズだった。
ドイツからイギリスへ来たとき、それは「難しい環境から、より適応しやすい環境へ移った」という感覚として認識された。
しかし、時間が経つにつれて、この印象は少しずつ変化していった。
日本人が多いということは、単に安心をもたらすだけではない。
それは、日本人だけで成立する小さな社会が形成される可能性も意味する。
同じ言語、同じ価値観、同じ前提を共有する人々が一定数集まると、その内部だけで生活が完結するようになる。
これは自然な現象である。
人は、本能的に理解しやすい環境を求める。
摩擦の少ない空間に留まることは、合理的な選択でもある。
しかし、その状態が長く続くと、現地社会との接点は徐々に限定的なものになる。
物理的には海外にいながら、心理的には日本的な環境の中で生活することも可能になる。
この現象は、特定の国や民族に限ったものではない。
世界中のどの都市にも、様々なコミュニティが存在する。
それぞれが文化的連続性を保ちながら、新しい環境の中で生活している。
それは、適応の一つの形であり、防御でもあり、同時に安定の基盤でもある。
そして、この構造を理解し始めたとき、「グローバルである」ということの意味も、少し違って見えてくる。
グローバルとは、単に国境を越えて存在することではない。
異なる文化が存在すること、そして人は完全に均質化されるわけではないという事実を認識することでもある。
人はどこへ行っても、自分の文化を完全に手放すわけではない。
むしろ、それを基盤として新しい環境と関係を築いていく。
イギリスでの生活は、そのことを静かに教えてくれた。
駐在とは、単に地理的な移動ではない。
それは、自分がどの文化に属し、どのように外の世界と関わるのかを見つめ直す時間でもあるのだと思う。

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