嫌いな人について考え続けてしまう理由

ヒトコト

嫌いな人というのは、放っておけばいいはずなのに、なぜか頭の中に居座る。
思い出したくもないのに、ふとした瞬間に顔が浮かぶ。
この時点で、もうおかしい。どうでもいい存在のはずなのに、どうでもよくない。

よく言われる話に、
「嫌いな人は、自分の嫌なところを持っている人だ」
というものがある。最初はきれいごとに聞こえる。でも考えてみると、意外と筋が通っている。

たとえば、自己主張が強い人が嫌いだと感じるとき。
その人は本当に“うるさいだけの存在”なのか。
それとも、自分がずっと我慢してきた「主張したい気持ち」を、遠慮なく使っている姿が目に障るのか。

人は、自分の中にあるのに使っていない部分を見ると、妙に腹が立つ。
そしてその怒りを、相手の人格の問題にすり替える。


もう少し正直に言えば、
「嫌い」という感情は、かなり自己中心的だ。
相手がどういう事情でそうなっているかには、ほとんど興味がない。
ただ、「自分が不快かどうか」だけで判断している。

だから逆に言えば、
自分を少し許せるようになると、他人のこともどうでもよくなる。

「自分もこういうところあるよな」
そう思えた瞬間、嫌悪は急に力を失う。
好きになるかどうかは別として、少なくとも攻撃する理由は消える。


とはいえ、たしかにいる。
「これはさすがにやなやつだろ」という人が。

誰に対しても失礼で、空気も読まず、責任は取らない。
複数の“やな感じ”を同時に持っているように見える人。
結果として、「あいつはみんなに嫌われている」という評価が出来上がる。

でも、ここで一度立ち止まる必要がある。
その「みんな」とは誰なのか。
本当に全員なのか。

結局のところ、「やなやつ」という判決を下しているのは、常に他人だ。
多数決のように見えても、それは主観の集合体でしかない。

しかも、人は一度「やなやつ」というラベルを貼られると、
その後の行動すべてが、そのラベルを補強する証拠として解釈される。
普通の発言が「やっぱり感じ悪い」に変換される。

そう考えると、「みんなに嫌われている人」とは、
性格の問題というより、関係性の中で固定された役割なのかもしれない。


結局、
嫌いな人は、相手の問題である前に、自分との関係の問題だ。

そこには、
自分が認めていない自分、
使ってこなかった自分、
諦めた自分、
そういうものが、だいたい混ざっている。

だから嫌いな人は、なくならない。
むしろ、人生の節目ごとに形を変えて現れる。

そういう存在に出会ったとき、
「やなやつだ」と切り捨てるのは簡単だ。
でも、少しだけ立ち止まって考えてみる。

こいつは、自分の何を刺激しているんだろう。

その問いに耐えられるようになると、
人間関係は楽になる。
好き嫌いが減るというより、どうでもよくなる。

たぶんそれが、いちばん自由な状態だ。

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