アメリカという一つの「世界」

アメリカ編

アメリカという国に長くいると、ときどき不思議な感覚にとらわれる。
それは、まるで「ひとつの国」というよりも、「いくつもの国」が寄り集まってできた、独自の惑星のようだということ。

州によって文化も価値観もまったく違う。気候や景色が違うのはもちろん、人の雰囲気や話す言葉のニュアンスまでもが変わる。ニューヨーク、テキサス、カリフォルニア、それぞれがまるで別の国のようで、それが一つにまとまって「アメリカ合衆国」になっているという事実に、改めて驚かされる。

アメリカでは、自分の意見をしっかり持ち、それを言葉にすることが自然と求められる。黙っていることは、美徳ではない。むしろ、「何も考えていない」と思われてしまうこともある。自己主張は生きる力のようなもので、そこにはある種のたくましさがある。

自分の「スペース」や「権利」を守るという感覚も強い。
たとえば日常の中で起こるトラブルも、話し合いよりも制度やルールに委ねて解決しようとする傾向がある。それは決して悪いことではなく、曖昧さよりも明文化されたルールを重視するという文化の現れだと思う。

ある時、アメリカの友人に時差の話をしたら、「へぇ、そんなにずれてるんだ?」と本気で驚かれた。世界のどこでも同じような時間が流れているという感覚が、日常の中にあるのかもしれない。それほど、この国の中だけで完結してしまうことが多いのだと思う。
バスケットボールの「ワールドシリーズ」が国内リーグだったりするのも、そんな感覚の一例だ。

こうした体験を通して感じるのは、アメリカは「外に目を向けない」のではなく、それだけ「内側に広い世界を持っている」のだということ。
それは、とてもユニークで豊かなことだと思う。

世界の縮図のような広さと多様性を持ちつつ、それでもひとつの国としてまとまっている。アメリカという国には、そんな不思議なバランスが流れているように思える。

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